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CHALLENGE 2020.08.07

竹之内悠選手スペシャルインタビュー No.1

学生の頃から数々の戦績を収めてきたCXライダーでありMTBライダーでもある竹之内悠選手。チャレンジタイヤでシクロクロスに参戦して今年で5年目を迎えるこの日本のチャレンジライダーのエースと、その活動を共にする東洋フレームの石垣社長のこれまでの歩みを振り返ってもらいました。才能ある青年の葛藤や輪界で世界を目指す人々の弛まぬ努力や強い志を垣間見ることができる熱い対談をお届けします!

全3回でお送りする今回の記事ですが、第1回目は竹之内選手の幼少期のお話からスタートします。幼い頃から活躍されていた竹之内選手の活動の裏側や、知られざる東洋フレームの石垣社長との繋がりなど、読み応え十分ですので是非お楽しみください!

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それでは早速、竹之内さんの幼少期から、U23ぐらいまでのことをお伺いします。

お父さんが自転車をお好きで、それがきっかけでマウンテンバイクを始められたとお聞きしています。

その頃はどんな少年でしたか?

竹之内 (以下 T )

空に憧れて、とにかくジャンプがしたくて。縁石をリップに見立てて、塾の帰り道に飛んで飛んで。

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生まれ持ったやんちゃ気質みたいな。

T

興味があったんでしょうね。あと、家にあるテレビでスノーボードのPV観たり、スケボーやったり、エックスゲームとかを観てたので。

中高の時はプレイバイクを持って遊んでました。

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小学生の時に既にサポートを受けていたんですよね?

T

そうですね。親父が管理していたんですけど、今となっては生意気に

小6からパナソニックナショナル工業さんのチタンフレームを

マウンテンとロード一台ずつ頂いていました。

そこから高校3年生まで、6~7年くらいですかね。

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その当時は、メーカーから供給される子供は国内にいなかったですよね。

T

はい。いなかったですし、親が管理してくれていたのでパナソニックさんがどういう経緯でしてくれたかは知らなくて。

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周りから見るとすごいなってなりますよね。

T

後から知ったんですけど、それらのバイクを石垣社長(東洋フレーム代表)が設計してくれていたんです。

しかも僕は生意気に、もっとヘッド角立ててクイックにして欲しいとか、ストレートフォーク使って欲しいとかやんやん言ってたんですけど、それをある程度聞いてくださってました。

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そうなんですか!?

石垣鉄也(東洋フレーム代表、以下 I )

というかね、よくご存知だと思うんですけどフレームビルダーの長澤さん※1がウチのこと知ってて。そこでいろんなことが行き交ってた時代なんですよ。

今はだいぶ閉ざされてますけど、パナソニックには川崎さんがいて、そして長澤さんがいて、僕がいて、役割分担があったんですよ。だから、川崎さんが「鉄也使いたいんだけど、図面見せてよ」みたいな。

で、いろいろ手がけたみたいな。そうゆう世界やったんですよ、横のつながりで。これ分からへんから教えてよみたいな(笑)

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あのパナソニックのフレームは、実はそうだったんですか。

 I 

そうそう。僕が設計してあげて。

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知る人ぞ知るですね。そこから竹之内さんは高校に進学されて競技を続けられたんですね? 

T

そうですね。親が兄と同じ高校に入れたいと思っていたようで、自然と僕もそういう意識でした。立命館宇治高校だったら内部進学で大学まで上がれるんで。その代わり中学校の内申点を頑張らないと。9教科、5段階評価で、40以上必要だったんでめっちゃ勉強して。

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先も見据えて大学受験というしがらみも取っておこうという考えで?

T

そうですね。高校の時間を有意義にやってほしいということで。中学校の時にどやされながら塾にも行って。

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もともと立命館宇治高校には自転車競技部がなかったんですよね。

T

なくって、先に兄が立命館宇治高校入って部を立ち上げて。兄自身も3年間はインターハイいくような選手やったんです。正直、競技部があろうとなかろうと自分で練習してやっていける自身があったので自転車競技部というものを意識していなかったです。

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高校時代の戦歴を拝見させていただきました。高校の時はすごいですね、全種目制覇されています。

(MTB CXジュニア、国体ロード、全日本シクロクロスジュニア共に優勝)

T

そうかもしれないですね。なんとなくしか覚えてないですけど。

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そしてその後大学に進まれて。

T

そうですね。でもその時にめっちゃ迷って親と喧嘩もしたんですけど。

同世代で伊藤雅和、伊丹健治とか、小森亮平とか、吉田隼人のような現在の中堅からベテランの選手は同い年でナショナルチームで頑張ったり、海外のチームに入ったり、海外を目指していたり。

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焦りますよね。

T

大学を行かないという選択も考えちゃうんで、若いなりに。でも親が絶対大学まで出とけという約束やったんで、内部進学で大学もついてくるし。それを外してまで自転車をやる勇気や魅力があるかその時答えが出せなかったので、大学行くのもありかなと。

その頃、マウンテンが楽しいっていう安易な考えもあったんで、そのタイミングでトレックジャパンさんからお声かけもしてもらって親としては、読売巨人軍に入れるというイメージがあったみたいで。

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すごいですよね。その時、関西界隈の人間からするとその歳でもうトレックかという感じで(笑)

T

野口忍さん(トレックの元MTB選手)からお声掛けいただいて、親もすごく気合入れてくれました。

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そのチームでU23を3年間走られていますね。

T

そうですね。チームメイトで、今は辞めちゃいましたけどケニー(小野寺健)が一緒にいたので助けていただいてました。

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2位や3位との差っていうのは、自分としてはぶっちぎりだなと思っていたのか、毎年ギリギリだっていう感じだったのか、どういった心境でしたか。

T

U23を連覇したいなんて考えたこともなくて、エリートの辻浦さんを打ち負かせるかなということばっかり考えていました。U23はおまけ、エリートで勝ってなんぼって考えていました。

ヨーロッパでシクロクロスを走りたいという思いがあったので、高校生の時に初めて世界選手権に出て、シクロクロスの方がマウンテンとかよりも世界が近く見えてしまうところがあったと思うんですけど、やって面白かったんで。なんでこいつらこんなに速いんやろっていつも考えてましたね。

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ベルギーや海外で活躍されていてその時に橋川健さんのチームに入られて優勝されて、立て続けにレースに勝ってコンチネンタルチームに入られましたね。

T

親父が亡くなって、どうしようと思った時に石垣社長に一回大学やめろよと言われて。

僕は4回生を卒業してヨーロッパとか挑めばいいと思っていたんですよ。けど3回生の途中で一回やめろと言ってくださって。そして3年間、一旦大学を退学したんです。ヨーロッパに挑戦したかったので、どこかあるかなと日本で探していた時に大門宏さんと橋川健さんの協力で日本発のサテライトアマチュアチームであるチームユーラシアができるというのを聞いて。U23の選手は夏場はガンガンロードやっているんで、スピード域も違うし。ロード、マウンテン、クロスあるけど、そもそもの実力をロードで上げないとやっていけないよなと思って、それでロードをどっぷりやりました。

3年間アマチュアで、初年度はユーラシアで、2年目は1回現地のクラブチームに入って、ニュージーランド人とホームステイしながら、毎日ごちゃごちゃと喧嘩みたいな生活で、3年目にユーラシアに戻って、その時にコンチネンタルチームが出てるレースで入賞したり、優勝したり。そこで海外のプロチームでスポンサーとかお金のしがらみなく走りたいなと思うようになっていきました。コンチネンタルチームに入っても本当の意味でプロではないんですけど、自分の力でやりたいなと。

橋川さんがすごく共感してチームを探してくれて、その時は全日本をとった年で、成績もそれなりのものがあったので、「全日本チャンピオンやけどチームに入れてくれへんか」ってあるチームに言ったら、「うちは世界チャンピオンがいるから、全日本チャンピオンなんていらないんだよね」って言われて。「そうだよね」って()それに僕はその年エリート2年目だったんですけど、U23だったらまだ入れたんだけどって言われて。僕もそこに行ってやっていけるかはわからなかったんですけど、その当時どうしてもプロチームに意地でも入りたいと思ってたんで、断られ続ける中で拾っていただいたのがコルバで。

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余談ですが、その当時チームに入って日本に帰ってこられた時に、足を見た時に足の形が全然違っていて、筋肉がすごい締まっていたんですよ。その印象がすごくあって、変わるもんなんだなと。

レースの写真を見て、他の日本の選手と比べても違っていて、ヨーロッパの選手に求められるような、細くてしまった筋肉がすごいなと思いました。

T

なんか恥ずかしいな()

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辻浦さんを破った2011年は石垣社長との関わりで、兄弟対決ではないですけど竹之内さんが上になってどういうふうに思われましたか。バトルを勝って、辻浦時代に待ったをかけたような感じじゃないですか。

T

辻浦さんとレースして前半のハイペースで2人で抜け出したんですけど、その時は辻浦さんについていくのも必死で。その時は僕もヨーロッパでアマチュアのBレースとか走ってたんですけど、今思ったらプロチームに入るような選手や、Bレーストップ5に入るような選手とレースで渡り合えていたのと、ロードもやって自転車の踏み方であったり、その時の年齢の勢いであったり、いろいろ噛み合って僕が伸びてた時期やったんですよ。

あれで1つの時代が終わったとは思ってないですし、辻浦さんがヨーロッパに挑み続けていたルートがあって、そのルートを受け継ぐじゃないですけど、僕も若い子に教えていかないといけない部分だなと。

ヨーロッパでお世話になっていろいろ教えていただいたんで、それを継いで若い選手に教える役目があるなと。

そのレースの夜も辻浦さんに電話してありがとうございましたって連絡させてもらいました。

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竹之内選手以外いないなというところでタイトルを獲られてそこから5連覇もされていますし、観る側からしたらやっぱり強いなと感じた年でした。

オフィシャルバイクとして東洋フレームを使うきっかけは?

T

ベルギーに行く時、ユーラシア1年目のタイミングで東洋フレームの自転車に乗り始めたので2011年からですね。

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チームユーラシアからはフレームサポートはなかったんですか?

T

ロードはあったんですけどシクロクロスはなくて。そのタイミングで石垣社長が2台作ってくださって。

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その後、2014年に別のチームに移籍されたんですが、それは全く違うチームですか?

T

ドルチーニですよね、別のチームです。というのもその年、コルバのコンチネンタルチームに入って、いろいろ勉強させていただいて、アマチュアはアマチュアのチーム間で選手が回るんですけど、コンチネンタルも同じで僕もヨーロッパツアーポイント取ったり、プロツアーの選手とスプリントする足もあった中でコルバは資金難で次の年はアマチュアクラブチームになるという状況で。

今思えばクラブチームになってもコルバにいた方が環境も変わらずよかったかなと思うんですが、その当時はコンチネンタルチームを維持しておきたいという気持ちが強くて。他チームの監督が国際交流派な方でコンチネンタルチームに来たいなら、うちのチームの来いよというお声掛けもいただいて、それで移籍しました。

すごく多国籍なチームでしたよ。僕以外にリトアニア、オーストラリア、イタリア、ベルギー、オランダ、ドイツとか。主にリトアニア人とイタリア人と色々なところで生活を共にしていました。

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その年は、辻浦選手の9連覇に迫る、5連覇の年だったと思いますが、3位くらいをずっと走られていて、最後に追い込んで優勝されたと思います。ヨーロッパでの経験が最高の勝利を産んだと感じましたが、ご自身の中で節目の5というのは、負けてたまるかという気持ちだったのか、今まで通り走ったら勝てたのか、どう言った気持ちだったんでしょうか。

I

辻浦と違うのは、この子の時から10月ぐらいにヨーロッパに行くようになったんですね、世界戦のために。

辻浦の時は、全日本終わってから世界選手権に行っていたんですよ。そこが大きな違いで、僕らのメンバーで世界で勝負しようよとやっていて、辻浦が「シーズン通して現地でやらないと無理や、勝負できない」と言っていたので、じゃあ悠お前行けと。

じゃあ全日本どうするんですかという話になるじゃないですか。でもそこは通過点でええんちゃうか、そこに目指して勝負するんじゃなくて、勝負するのは世界選やからと。だったら10月からシーズン入って、全日本だけ帰ってきて、またヨーロッパいけばいいんじゃないかというふうにこの子たちの時から変えてるんですよね。

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モチベーションがそもそも高いのとコンディションが上がってきている状態なので、レースの綾で後方に残されても、そこでポンと上がる自信はその時あったんですね。

T

僕は自信なかったですね() イケるとは思ってなかったですね。

5連覇目の時は足がボロボロで右足の肉離れをしていて、練習もままならなくてローラーで1時間走るのがやっとだったんですよ。その日の朝もストレッチとか、肉離れをケアしすぎて全然エンジンかからなくて、後半になって脚が締まってスピードがパッと出て勝てたんで。

2014年の時にはもう肉離れしてたんですけど、原因がわからなくて。コンチネンタルチームって年間通してレースするじゃないですか。ご飯もいくらでも食べれて、2014~15年くらいは結構太ってしまって。脳がバカになって、どれだけ乗っても満足しない状態。もっと科学的に管理すべきだったとは思います。


©︎Kei Tsuji

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レースで培ってきたつながりっていうのがあって、これまでは素晴らしい選手がいるというようなチーム組織ではなかったですよね。まだお若いですけど竹之内さんっていうレジェンド選手が東洋フレームという看板を背負いつつ、チームとして成り立っているというところがやはりすごいなと思います。

やっぱり難しいですよね、1年2年でこういう歴史は作れないですし。これまでの長いお付き合いとか、石垣さんがいろんな現場を見てらっしゃって。いちファンとして竹之内選手を見て、この先どうするのかなと思った時に、やっぱり石垣さんのところで走り続けるんだなと思った時に、嬉しい気持ちになりました。

T

涙が出る話ですね()

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ちゃんと受け継いで残して行かなきゃいけないというか。戦績残してパッと業界から消えるというのは、ある意味かっこいいんですけど、それをやってしまうと結局何も残らないので、すごくいい道を歩んでらっしゃるなと。

I

でも、そういう文化がないから世界に届かないわけで。

日本の競技連盟は別として、僕らは何をしなければならないのかということがあまりにも無さすぎるんで。

どうやったら世界と勝負できるかということを。

当然レースはお金もかかるじゃないですか、でも彼らにとっては1回きりの人生なんですよね。

悠もそうですけど、幼少期の頃からお父さんに英才教育的に自転車競技をさせてもらっている中で、将来何をするのかって考えておかないといけなかったですし。僕なりに考えての今なんですけど、志の軸をブラさずにとか、いろいろあるじゃないですか。その中で、我々がどう生き抜くのか。得意分野の自転車の中で何ができるのかを考えることが生きてて一番大切じゃないのということが、彼なりに世界を見て、このおっちゃんの言ってることがある意味正しいなと思ってた部分だと思うんですけど。

T

嫌いとか言いながら()

I

一番思ったのは、何お前遠回りしてんねんと。どうせこうするんやからそんな遠回りする必要ないでしょと。

8年間で卒業したらいいねんから大学を休学しろと言ったのも、今のチャンスをなんで卒業までの1年間待たなあかんねんという僕の思いもあって。その代わりそれなりの結果は残してこいよ、というのが当時の会話やったんです。

T

それを母に話した時、親父は母に「悠は大学行ったけど、この先どっかのタイミングでヨーロッパ行きたいって言い出すと思うから、その時は行かせたってくれ」って言ってたみたいで。父と社長の間にどんな会話があったか僕はわからないですけど、父は社長と一緒に頑張ったら大丈夫だと言ってくれてたんです。

僕がそれだけ父を信じきっているわけではなかったんですけど、今もどうにかなっているんで() なんとなく大丈夫かなと今思っています。

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心の支えというか、選手は子供みたいなものでレースで怪我もするし、チームは心が落ち着ける場所であったりというのは大きいと思います。

T

これでいいんだっていう肯定感を持つのがすごく難しいじゃないですか。海外のチームはドライですし。それはそれでアリやとは思うんですけど、まだ結果も出てない時にそれをされると選手もシンドイんで。

I

僕はずっとオンというのは嫌いなんです。オフがないとオンになれないはずなんで。

レースを走らせるまでにオンとオフを必ず作っているんです。

彼は今オフなんですけど、オフの時にやるべきことはオンにつながるわけじゃなですか。ずっとオンは持続できないから、オンとオフの繰り返しで選手って上がったり下がったりしながら少しずつ上がっていくと思うんで、そういうことを常に意識はしてもらうようにしてます。

今も調子が悪いから不幸せというわけではなく、ある意味ありがたいと思って、何かプラスになることがあるんじゃないのっということを常に話してます。

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シーズンを通して、マウンテンとシクロクロスを両方なさっているので、オンとオフが重要になってくると思うんですけど、移行期にはメリハリをつけているんですか。

T

ある程度メリハリをつけています。普段はロードでベースを作って、足の具合もあるのでマックスまで乗れないんで、その日の体の状態である程度、追い込める練習量で頑張っています。

疲れ切ったら肉離れの弱い部分がまた千切れてくるんで。それがやばいっていうのが最近コントロールできるようになったので、そうなったら2~3日休んでというのを繰り返してます。



幼少期からの竹之内選手と石垣社長の繋がりなどは驚かれたのではないでしょうか。お二人の絆を感じられる貴重なお話を聞くことができました。

次回は、2019年以降のご活躍にフォーカスを当てて、お話を伺いたいと思います!

是非、ご期待ください!

※1 長澤義明ナガサワ レーシングサイクル代表。ポリアーギ、デローザの元で修行した日本有数のフレームビルダー。中野浩一の世界戦プロスクラッチ10連覇は彼の機材と共にもたらされた偉業として語り継がれる。


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